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第18話 曇天の霹靂

last update publish date: 2026-05-21 09:34:30

 ――怜央の講演翌日。

 この日の私は、朝から体調が芳しくなかった。

 ベッドから身体を起こしたときから、嫌な予感がしていたのだ。

「空が真っ黒。今日は雨かしら」

 窓から空を見上げて、つぶやく。

 昨日の天気予報では、降水確率は10パーセントだった。

 春先の天気は変わりやすいという。今日がそういう日なのだろう。

「どうせなら、朝から雨が降ってくれたほうが踏ん切りがついていいのだけれど」

 私には、こういう曇天が雨よりも苦手な理由があった。

 途端、ずきりと膝が痛んで、私はサポーターの上から膝をさすった。

 真っ黒い雲、薄暗い視界、まとわりつくような重い空気。こういう日は、古傷が痛むのだ。

 古傷――怜央に婚約破棄され、階段から突き落とされたときに負った傷だ。

 あの日も、今日同様、重苦しい空模様だった。

 身体が、当時を覚えているのだろう。

 こういう日は、生理のとき以上に精神的に参る。

 それでも、ここ数年は何とかやり過ごしてきたのだが。

「昨日、色々あったせいかな。いつもより身体が重い」

 だからといって引きこもるわけにはいかない。まだ新生活は始まったばかりなのだ。

 せっか
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  • いいこは怒らせると怖いですよ?   第18話 曇天の霹靂

     ――怜央の講演翌日。 この日の私は、朝から体調が芳しくなかった。 ベッドから身体を起こしたときから、嫌な予感がしていたのだ。「空が真っ黒。今日は雨かしら」 窓から空を見上げて、つぶやく。 昨日の天気予報では、降水確率は10パーセントだった。 春先の天気は変わりやすいという。今日がそういう日なのだろう。「どうせなら、朝から雨が降ってくれたほうが踏ん切りがついていいのだけれど」 私には、こういう曇天が雨よりも苦手な理由があった。 途端、ずきりと膝が痛んで、私はサポーターの上から膝をさすった。 真っ黒い雲、薄暗い視界、まとわりつくような重い空気。こういう日は、古傷が痛むのだ。 古傷――怜央に婚約破棄され、階段から突き落とされたときに負った傷だ。 あの日も、今日同様、重苦しい空模様だった。 身体が、当時を覚えているのだろう。 こういう日は、生理のとき以上に精神的に参る。 それでも、ここ数年は何とかやり過ごしてきたのだが。「昨日、色々あったせいかな。いつもより身体が重い」 だからといって引きこもるわけにはいかない。まだ新生活は始まったばかりなのだ。 せっかくクラスで注目を集める存在になったのだから、ここで下手に評判を落とすわけにはいかない。 体調が悪い中でどう動くか。そのスキルを身につけられたのは、ブラック企業で働いて得た数少ない成果だと思う。 幸い、熱はない。 ベースメイクをいつもより念入りにし、朝食も気持ち鉄分多めに摂って、私は自宅マンションを出た。 駅へと向かうと、入口で龍慈君が待っていた。珍しいこともあるものだ。彼は普段、自転車通学である。 私と顔を合わせると、彼は一瞬だけためらった後、私に声をかけてきた。「はよ、井伊サン」「おはよう、龍慈君。今日は嫌な天気ね。雨が降りそう」「井伊サン、昔からこういう日は苦手だったよな。今日もヤバい感じ?」「まあ、正直……ね」 私は力なく笑った。「龍慈君がいるなんて珍しいわね。今日は電車通学なんだ」「まあ、うん。井伊サンに早めに会っといたほうがいいと思って」「昨日のこと?」 ずばり聞くと、龍慈君は顎先を指でかいた。「昨日は、ごめん。俺、ちょっと先走ったかも」「そう」「いや、別に井伊サンに何かしようって思ったわけじゃないんだ。ただ、心配になってさ。一条怜央とのこと

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     龍慈君の目が、強く何かを訴えかけている。 少年ではなく、男性の息づかいを感じる。 私はきゅっと唇を噛みしめた。 駄目。 それは駄目よ、龍慈君。 あなたは、私にとって弟なの。 近づいてくる龍慈君の顔。男の子にしてはびっくりするほど睫が綺麗。肌もどうしてこんなにきめ細かいのか。 力強いのに肉感的な唇が迫ってくる。 あと10センチ。 私は右手の人差し指を、龍慈君の唇に当てた。久しく感じていなかったぞくりとした震えを、胸の奥に押し込める。 龍慈君が泣きそうな顔になった。「井伊サン、俺……」「私は、もう恋愛はしないと決めてるの」 私の言葉に、龍慈君が目を大きく見開く。 ごめんなさいと、心の中で私はつぶやく。 口からは、大人としての真面目で、だけどズルい言葉が零れ出た。「私の存在は、龍慈君を幸せにしないと思ってる。だから私は、あなたの幸せを願うだけだわ」 微笑んだ。微笑んだつもりだった。 けど、自分で何となくわかる。今の私は、ひどく空虚な表情をしていると。 ――フラッシュバックだ。 いつかのベッド。 いつかのデート。 いつかの、婚約破棄。 ずきりと、古傷の膝が痛んだ。「忘れるな」と私の頑なな心が警告しているようだった。 龍慈君は目を閉じた。そして、ゆっくりと私から離れた。 指先から、龍慈君の温かな唇の感触が遠のいていく。その熱は、まるで神聖不可侵なものに触れてしまった痛みのように感じられた。 人差し指と親指を、ゆっくりとこする。また、背筋がぞくりとする感覚が来た。 龍慈君が踵を返す。「井伊サンを守るのは、俺だから」 そう言い残し、龍慈君は立ち去っていった。 誰も居なくなった廊下の壁に、私は後頭部をごちんとつけた。長い息を、天井に向けて吐いた。「私はもう、誰かに守ってもらうような女じゃないのよ、龍慈君……」◆◆◆「はぁ……。あの表情はズルいよ、井伊サン。俺、何も言えなくなるじゃんか」 かなり歩いてから、俺は片腕で顔を覆った。こんな情けない顔を、井伊サンに見せるわけにはいかない。 男のプライドが許さない。 だが、そんなプライドなんて、井伊サンの前ではちっぽけな感情なんだと思い知らされた。「ミスった。あの場であんなことするんじゃなかった。後で井伊サンに、どんな顔して会えばいいんだ」 鞄を取りに、教室へ向か

  • いいこは怒らせると怖いですよ?   第16話 大人の微笑みへの応え

     怜央の講演会が終了した。私の質問がよほど衝撃的だったのか、教頭先生は質問を打ち切ったのだ。 怜央とは、それから視線が合うことはなかった。話をする機会もなかった。 その代わり、講堂を出るまでの間ずっと、綺羅良が私を睨んできていた。私は講堂出口で振り返り、綺羅良に向けてカーテシーをした。それを見て顔を赤くした綺羅良は、少し見ものだった。 教室への帰り道。私はクラスメイトの女子に囲まれた。「井伊さん、すごいね! 最後のあのお辞儀って、カーテシー?っていうんだっけ。ガチ綺麗だった」「一条先生相手に堂々としてたよねー。私、見ていてドキドキしたもん」「ありがとう。盛り上がってよかったわ」「それで? それで!? 井伊さんの好きな人って誰!?」「同じクラス? それとも年上? まさかの他校生とか!?」「ふふ。それは秘密」「えー」「やば、今の仕草、すごい大人っぽかった」「ねー。井伊さんって、先生よりも先生っぽいよねー」(まあ、少なくとも伊集院先生よりは年上だものね)「クラスメイトとしてこれから1年、一緒に頑張りましょう。何かあったら、手伝ってね?」「やっぱり先生っぽい……」「はい! 井伊先生!」「よろしい」 クラスメイトたちと笑い合う。 こちらを遠巻きに見ている男子生徒に気がついた。私は微笑みかけた。色めき立つ男子生徒たちに、すかさずクラスメイトが釘を刺した。「あんたたち、井伊さんに近づくんじゃないわよ」「そーだそーだ。井伊センセに色目使うなー。キモいぞー」「そんなんじゃねえよ!」 私は、年下のクラスメイトたちのやり取りを微笑ましく眺めていた。 10年前とは違う形だけれど、こうして青春の中に身を置けることは、ありがたいと思った。「あら?」 そのとき、前方に背の高い男子生徒が現れた。 龍慈君だ。 どういうわけか、機嫌が悪そうだ。 龍慈君の名前は、すでに私のクラスでもイケメン上級生として知れ渡っている。周囲の女子生徒たちが「見て、久我先輩だよ!」と沸き立った。 なるほど、龍慈君はいつもこんな視線に晒されているわけか。 確かに、毎日この調子では、うんざりして無愛想になるのもわかる。 でも、どうして彼はここにいるのだろう。講演会は1年生だけのイベントなのに。龍慈君は3年生だ。そろそろ受験勉強を始めていてもおかしくない。「こん

  • いいこは怒らせると怖いですよ?   第15話 目に見えない打ち合い

     講演が終わった。 綺羅良の失態というトラブルがありながらも、怜央は最後にはホール内の空気をまとめてみせた。 額の冷や汗を拭った教頭先生がマイクを握る。「それでは、ここで質疑応答の時間とします。一条先生に質問のある生徒は、挙手しなさい。起立したら、クラスと名前を名乗ること」 私は真っ先に手を挙げた。両隣の生徒が、少し驚いたように私を見た。 怜央は、表向きにこやかな表情を崩していない。 伊集院先生がマイクを持って、私の席までやってきた。 列の端の生徒から順にマイクを回してもよかったのに、伊集院先生はわざわざ生徒の前を通り、私にマイクを手渡ししてきた。「井伊さん、穏便にね」 そのことを伝えにきたのだ。 私は尋ねた。「何か、質問してはいけないことがあるのですか?」「……井伊さんだったらわかると思うな。頼むから、僕をあまり困らせないでほしい」 その台詞で、伊集院先生に何かしら圧力がかかっているとわかった。私と怜央との因縁を、誰かから伝えられているのだ。 おそらく――怜央本人から。(あなたには聞きたいことがたくさんある。でも、ここで何を聞いたところであなたは上手くはぐらかすのでしょうね) 伊集院先生からマイクを受け取り、立ち上がる。 生徒たちの視線が私に集まった。 怜央も、私を見た。 時間にして1秒もなかったかもしれない。私と怜央の視線が交差した。 表情が変わらない者同士のぶつかり合いだ。「1年4組の井伊こよりです。先ほどは素晴らしい講演をありがとうございました」 自己紹介する。怜央がステージ上で軽く頷いた。私は内心で眉をひそめた。(……いま、笑ったわね、怜央?) それならこちらにも考えがある。 私は質問をぶつけた。「質問です。『一条さん』は、好きな人がいますか?」「一条さん」に力を込めた。 講堂内が一気にざわついた。 怜央を「先生」ではなく「さん」付けしたことに教頭先生は慌てたが、生徒たちの声にかき消された。「え、知りたい知りたい!」「井伊ちゃんナイス!」 クラスメイトの、主に女子が色めき立った。 それでも怜央は表情を変えることなく、綺羅良を手で示した。「実は、あちらにいる秘書の下弦君が、私の婚約者なんだ」 綺羅良は、椅子に座ったまま勝ち誇ったように微笑んだ。 生徒たちからは「えー、そんなあ」「やっぱ

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     ――放課後になり、私たちはぞろぞろと教室を出て、講堂へ向かった。 今日、新入生全員が参加して、特別講師の訓示を受けることになっている。 クラスメイトの一部は浮き足立っていた。耳の早い女子生徒が、特別講師にイケメンが来ると話していたのだ。 私も、誰が来るのか知っている。 一条怜央。 あの男がやってくる。 黎明館学園では数年前から、新入生向けのオリエンテーションの一環として、学園の理事である怜央が講演を行っていた。 このことは、学園入学前に朝菜と調べて、わかっていた。 講堂は、ステージに向けて緩やかな傾斜があり、映画館のような座席が並んでいた。同級生に続き適当な席に座ると、ちょうど講堂のど真ん中にあたる場所だった。 ステージの端では、司会者や関係者が座る机と椅子が据えられていた。今は司会者である教頭先生のみが座っている。 講演の時間になった。 舞台袖から怜央が現れると、途端に黄色い声が上がった。「あれが噂の理事長先生よ!」「マジ、ヤバッ!」「新入生の皆さん、初めまして。一条怜央と申します。最初に、私は一介の理事です。理事長になってしまったら、忙しくて皆さんと顔を合わせることができなくなってしまう。せっかくエネルギーをもらえるチャンスなのに、それはもったいない。いいですか、私は理事長ではなく、理事です。間違っても私を理事長に押し上げるなんて話をしないように」 片目を閉じて語る怜央。 ユーモアある語り口に、女性生徒だけでなく男子生徒からも笑いが漏れる。(そう。あなたはそうやって、周りの好意を得てきたのね、怜央。この講演はその足がかり。初めて会ったときから変わっていない、大した手腕だわ) 講堂の座席に座った私は、険しい表情でステージ上を見つめていた。 そのとき、ステージ端に設けられた関係者席に、見覚えのある女性が座った。 私はわずかに目を細めた。 下弦綺羅良。 10年前、私をいじめて退学に追い込んだ女だ。 そして、怜央の現在の婚約者である。 彼女が怜央に取り入ったことは、怜央の企みを調べている中で知った。 おそらく綺羅良の方は、私が怜央の元婚約者だったことを知らないだろう。 10年前と違い、綺羅良はダークグレーのスーツ姿でぴしりと決めている。髪色も、あのときと比べるとだいぶ大人しくなった。 遠目では、まるで社長

  • いいこは怒らせると怖いですよ?   第13話 美男と美男の対面

     コンコン。 応接間の扉がノックされ、僕の心臓が飛び上がった。「一条先生、そろそろ講演のお時間です」 教頭先生が、うやうやしい口調で一条さんを呼びに来たのだ。 それまで険しい表情をしていた一条さんが、ころりと表情を変えた。瞬きする間もないほど一瞬だった。「もうそんな時間ですか。つい長話に興じてしまいました」 そう言って、僕を見る。再び僕はどきりとした。「伊集院先生とは年齢が近いせいか、共感するところが多くありました。我が校に、このように若く優秀な教師がいらっしゃることを、誇らしく思いますよ」 僕は口元が引き攣りそうになった。「恐縮です」と答え、何とか愛想笑いを返す。(それは、ご自身も若く優秀だというアピールでしょうか) たぶん、そうだろう。にじみ出したエリート意識なのだ。傲慢――ではあるけれど、一方でひどく彼に似合っていた。 一条さんには、僕にはない強さがある。 教頭先生は、一条さんの自然な傲慢さにすっかり支配されているようだ。春先の暑くも寒くもない気候の中でも、額に光る汗が見える。 主君の機嫌を損ねないように。自分が見ている前で厄介事を起こさないように。そんな考えで頭がいっぱいなのが手に取るようにわかる。(こういうとき、割を食うのはいつも下っ端なんだよな。……ああ、駄目だ。いつにも増して愚痴が出る)「そうですか、そうですか。私も、伊集院先生の優秀さには助けられていましてな。おお、そうだ。今後も一条先生のご案内は、伊集院先生にお願いするということでいかがです?」(ええ!?)「おお、それは嬉しい。ぜひ。伊集院先生、これからもどうかよろしくお願いします」「は、はあ」 完璧な微笑み。この顔を前にして、心を動かされない女性はいないだろう。 井伊さんは、こんな男性から目の敵にされているのか。 一条さんほどの人物の感情を揺り動かしてしまうのか、井伊さんは。 一介の女子高校生が、これほど――。「伊集院先生? いかがされましたかな?」「あ、いえ。まだまだ若輩ですが、私でよければ、喜んで」 つい、迎合する言葉が口をついて出る。 いや、これでいい。これでいいはずだ。一条怜央という嵐をやりすごせるなら、これでいい。 一条さんがソファから立ち上がる。 僕も立ち上がって、彼を見送った。 一条さんが僕の横を通り過ぎるとき、一瞬だけ、彼

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